幻想と現実の狭間をフラフラと。

社会に溶け込む自信のないアラフォーです。社会って厳しいし苦しいね。優しい笑顔の裏にはみんな泣きたい心があったりすると思う。

もし死ぬ日が分かってしまったらどんな風に過ごすだろう?

インスタグラムをぼーっと見ていたら、タイトルのようなフレーズを流す動画に出会った。

ぞうさん家族のお父さんが死神ちゃんから死ぬ日を予告されて、その日になるまでにどんな風に過ごしていったのかを、簡単にまとめていた。

お父さんゾウは、変わりなく何気なく、でも子どもたちや奥さんのために時間を費やし、家族のために自分の時間を過ごしていた。やがて、お母さんゾウは、死神ちゃんとともにいるお父さんゾウに死ぬ日を教えられて涙していたが、その当日は静かに受け入れて、子ども達をお父さんゾウがいる海へと連れていく。子ども達、男の子は一緒にキャッチボールしたボールをお父さんゾウをかたどった雲に、投げ飛ばす。その雲はお父さんゾウに変わってキャッチボールを受け止めた。

 

この1分くらいにまとめたショートストーリーでも、とても見ごたえある動画だった。

 

同時にいろいろと考えさせられた。

 

 

 

注:これから書く内容は、決して、自死を推奨するものではなく、自分のこのテーマについて感じたことであるので、決して深く感じ入ることはおやめください。そして、ふかんするように読んでいただければ幸いです。あんまり、鵜呑みにするのはやめてくださいね。

 

 

 

今の自分に置き換えて、このキャッチフレーズを咀嚼する。

 

私の場合は・・・たぶん、何気なく過ごすと思う。食事や一つ一つのものに大事に向き合い、味わい尽くすかのように、その日その日を楽しむだろう。

生きていくことで精一杯であるため、その日に与えられた一つ一つをありがたく噛み締め、ありったけの感謝を伝えていくだろう。そして疎遠になっていた友達にも会いに行くだろう。できることならば、遠くにいる甥っ子にも会いに行きたい。一番最初の甥っ子で本当にかわいくて、私が母になりたいぐらいだった。

 

どう頑張っても、私は自分で決めたことを最後までやり遂げることは、少なかった。途中であきらめて妥協して、その日その日を凌いでいたように思う。

 

早く帰りたかった。あの世界に。幼稚園の頃は特に、その気持ちが強かった。

 

かけっこの時、早く走りたいのに、太もものあたりや足先に力が入らないのが不思議でいつもビリだった。なんで?なんで?もっと速く走れるはずなのにって。いつも走りながら感じてた。

 

だから私は、死ぬ日が、もし一週間後だと言われても、もう諦めの境地で、その時を迎えるだろう。1か月あれば、できる限り会いに行ける人には会いに行きたい。

そして「ありがとう」ってお別れして帰途に就くだろう。

 

そして笑顔で、その世界に逝けるように私は眠りにつくだろう。

 

 

 

 

 

 

しっかり自分と向き合うことは大事だけど同時に追い込んでいる。

昨日、親と話をするうちに、もう涙が出てきて、自分の仕事にしてきたことが、じつは、自分で自分を傷つけていたことだったことに気がついて、涙が止まらずにはいられなかった。

 

結局、肝心な部分が満たされないまま、大人になってしまっては、自分でも気づかずに、自分を追い込んでしまう人生になってしまう。

 

なんのための子育てだったのか。

 

親の自己満足で終わっていた子育てでは、子どもは心なしか不安を抱いて、自信が持てないまま大人になる。

 

必死で大人になるまでの過程を自分なりに、歩んでいって、親や学校から教えられていることを学び、なんとか、必死に立って立ち続けて、踏ん張って、なんとか歩いて、幾度も突出する課題や試練たるものに、おびえながらも立ち向かっては、打たれ、躓き、転び、負傷し、気絶→意識を取り戻す→なんとか立ち上がって歩き続ける。

 

そういったことを繰り返して繰り返して、大人になっていくのである。

 

打たれ強くなっていけばいいのだが、そうでない人たちは、どんどん自信を失っていき、挙げ句の果てには死を選ぶ。

 

そうならないためにも。当事者の心の闇を暴き出すこと、膿出すことが大切になってくるのだ。

 

これは、めちゃくちゃ辛い取組である。そして骨折る作業だ。ケア者の相当な根気と器の大きい人でない限り、それを成し遂げることは難しいと思う。だからこそ、複数の人がかかわらないと、ケア者も当事者の道連れに巻き込まれてしまい、2次災害になりかねないのだ。

 

子どもの世話は、自分が今まで生きてきた中で、いっぱいやりたいことに取り組んで、失敗しながらも、やりたいことを叶えていった人たちが、自分の欲求を満たしていった人たちが、取り組めるものだ、ということを、保育士の仕事を通して痛感した。

 

私は、保育のカリキュラムの中で、自分の欲求を満たそう満たそうとして、それにいっぱいいっぱいになって、体を壊したのだった。子どもを保育のカリキュラムを達成させよう、取り組ませよう、そのためのコントロールするだけにいっぱいいっぱいになっていた。

 

また保育を子育てと勘違いしていた。保育士はお母さんではないのである。あくまでも、子どもたちをよりよい人間に導くための先生であり、導師なのだ。それには厳しい視点も必要だし、子どもたちを冷静に、批判的に見る目も必要なのだ。

 

私には、もう、保育に携わる仕事はもう復帰できないような気がしている。保育に子育てを求めていた。その過ちに自分で気づいた私には、別方向でもう歩き出すことが必要だと、私は思うようになった。

 

この流れには、自分自身との対話で行き着いた答えだった。自分としっかり向き合うことで心を整えることができるが……あまり度をすぎると、自分を追い込んでいくリスク性も高くなる。それだけは気をつける。

 

ただ、その追い込まれた自分を認めて、受け入れ、対策を練って乗り越えた暁には、また違った視点が得られるのではないだろうか。私はそこに希望を見出したい。

 

すごいね。本屋には韓国語や中国語などの外国語テキストが軒並みに並んでいますよ。

英語の試験いつも80~90取ってて自慢だった。でもなんだろう、英会話というものに苦手意識が拭えなくて、アラフォーになった今でさえ、英会話というものに苦手意識をもって喋れていない現実に悔しさを感じている。

それなのに、取り残されたように時代は進んでいって、

今では、中国語や韓国語のテキストが、本屋の学習コーナーに軒並み並んでいる状態ですがww

 

皆さん、英語の会話できていて??

 

だとしたら、羨ましいわww

 

英語の試験で80~90取れて英会話ができて・・・というのはよほどの教育環境が整っていたといっても過言ではないですわねww

 

しかもそれ、私たちの学生時代で言えば、ほんの一握りの数でした。そしてお金持ちだった。祖父母の関係性も良好なご家庭の子だった。

 

私たちの学生時代では当時は本当に見えなかったけれど、今思い出せば、本当に今の二極化時代を作り出す絶好の機会だったと思うわ。

 

終戦になりGHQ占領下もとで整えられた教育が、戦後世代(まぁ、私たちの両親世代でしょうか)によって教えられる世代なんですもの。公立学校ではそれがベースとなって教育となって交付された。絶対に戦争をしないように、日本が二度とこの戦争の過ちを繰り返さない様に徹底的に、戦前の教育(寺子屋教育や郷中教育みたいなもの)は廃止に追い込まれましたもんね。

 

戦前世代が持っていた大和魂を持つ男子は、しっかりとした教育方針を支えとしている老舗の、豊かな家柄にしか既に伝わっておらず、もう今では、壊滅状態にまで追いやられていると存じます。今の日本の男子の有様見ていかがお思いでしょうか。特に日本女性、大和撫子の皆様ww

 

貴方方が求めている理想の男性像は、外国にしかいらっしゃらないのではないでしょうか。

 

あー・・・また頭のおかしい人がなんかほざいているよww

 

と言って通りすがる方ww

 

 

それでよろしいww

 

貴方には必要のない戯言ww相手にしても時間の無駄ですわww

せいぜい、今の生活を楽しんで豊かな生活になっているのですからww

 

よろしいですのよ。どうぞ貴方の世界へお戻りくださいませ。

 

 

ハクバノ王子サマは日本にはおりませんww運よく理想のパートナーを得られたラッキーな方々はお相手することなく、リターン推奨でございます。

 

あくまでもこれは私の妄想癖によるもの。被害妄想から出来上がった世界観で見えているもの。相手にする価値はございませんww

 

とっととほざいてろやっ!!ぐらいな勢いで捨て置いてくださいww

 

今の日本は二極化が進んでおります。差別化も進んでいると思う。いろんな肩書が生まれてきておりますもんね~ww

 

自分たちの教育が原因なのにww

 

学校の規則に構わず、思い通りに生きてきた人が正解で、

学校の決まりを守りながら、そして今まで周りのことを考えて、

我慢しながら頑張ってきた人は隅に追いやられていく仕組み、これどう思うよww

 

 

戦前の教育は確かに、危険な思想だったと思うわよ。

ただ、おかしいと思いませんか?

 

戦前の教育、家族を大事にすること、家の生業を大切にしていくこと、

が今では伝えられておらず、

私たちは核家族化していってるんですよwwおかしいと思いません??

 

それなのに、外国はどうよ??

家族を大事にして、自分たちで家を作ることができて、

手に職を持ったり、自分の仕事に誇りを持つことを当然として

 

生きていってるんですよ!!!

 

ごめん、言わせてもらう!

 

戦前の日本ではできていましたから~~~~~~~~~~~~!!!!!

残念!!!!!!!

 

とかいって・・・・

 

日本も悪いところはあったのよね。

 

日本は島国。閉鎖的な国だったし、土地住民の人間関係がカギとなる。しがらみを乗り越えられる人でないと、生き残ることは本当に難しい国ではなかったか。

移住してきた方々にちゃんと丁寧に世話することができていたか、疎外感を感じさせることをしなかったか、をちゃんと振り返るべきだと思うよ。

 

もう今では、日本は、外国の方々から教えてもらわないと、本当の日本の姿は見えなくなってしまっているのに等しいくらい、日本は自分自身についてわからなくなっているように思います。だって、流れを固定されて、変えられなくなってるもん。

 

自分たちの「変わりたい」精神がことごとく淘汰されてしまっているからね。変えたいという気持ちは、必要あらば備えられてた。

 

だからと言って、急に大きく変わることが必要とは言わない。

無理を生じてまで変われとも言わない。

 

私たちが大事なのは、日本は既に、核家族化を見直さなければならない時期に来ているってこと。自分たちの手に技術があるか、それを強みにできているか、を振り返る必要性があるかってことです。

 

落ちぶれている人達、自信なさげに生きている人たち。

自分たちは間違っていない。私たちは空気を読み取りながら、生きていた。

自分たちは必要ない、変わりゆく社会の中でそう察知して自らの道を選んで生きてきたと思う。

 

頑張ってきた。ここまで頑張ってきたんだ。

 

その精神をもう一度、燃やしてみないか。

 

今度は今、くすぶっているその精神を、手に職を持つ技術を手に入れるために、そして日本の文化を自分たちで盛り上げていけるように、伝統技術を携えられるようになってみないか。日本の社会人として、自分の個性を生かして人の役に立てるような仕事に取り組んでみないか。ゆくゆくは自分で独立して稼げるような夢をもって見ないか。

 

収入は僅かかもしれない。でも、収入以上の価値がある。

手に職を持つということは、強みであり、自分の誇りでもある。

今では一定のお金が貯まったら始められる、お金を増やすブロックチェーン技術というのもあるようだ。

知らんけどww

 

なんかSNSで声をかけて親しくなった外国人の方達が親切にも教えてくれているww

お金無くて(泣)まず貯めることから始めなきゃいけないのよ(泣)

 

誰かお金に余裕のある人、挑戦してみてww

 

あ、でも、破産するリスクはあるってのは覚悟しといてなww

 

一攫千金得られる美味しい話がどこにあるねんww

みんな地道にお金を積み立てて貯めてきたのが日本人だ。

でも、今やその貯金でさえも間に合わなくなってしまっているのが今の時代であり。

 

もうお金に働いて増やして言っていかないと、追い付けない時代に突入しているようです。親切な外国人の方々が、どえらい方々が教えてくれました・・・

 

私にはもったいないぐらいの同世代の外国人が教えてくれました。

そして日韓、中国などの友好関係は、本当は昔から変わらず仲が良くて、交流を保てている、それは今でも続いているという・・・衝撃的な話を聞いて大変ショックを受けた最近です。

 

あの・・・日韓を嫌悪感に巻き込んだあの旋風運動はなんだったんだ・・・私たちは大いに振り回されてたっちゅーわけ。

 

あーばかみたい。

 

お金貯めてそのブロックチェーン技術早く教えてもらいたいわ~ww

まぁ、夢のまた夢だけどね。。。。私はたぶん、体調回復して働いて地道にお金をためていかないとだから、このまま死を待つのみかもしれないけれど。

 

 

夢叶えたかったな・・・。

辞世の句読みたいけれど、まだ違うことを願ってやめとくわww

 

っていうかここまで相手にしてくれてありがとねんっ☆

戯言なのに、こんなに最後まで読んでくれて本当にうれしいよ。

 

吐き出させていただいたわ。スッとしたww

これで、この記事が削除されるようなら、もう都合の悪いこと言っているも同然だからww削除されないことを祈るわww

 

 

さいごに。このくそばばぁくたばれっ!

と、思わない様にしてなww因果応報で自分に返ってくるからね(笑)

そんな思うくらいならスルーして、好きなことに没頭しないと、

 

せっかくの自分のエネルギーが無駄になっちゃうよww

 

それではおやすみなさ~いww

花びらのように散りゆく中で夢みたいに君に出会えた奇跡・・・

『愛し合って 喧嘩して

 二人でいろんな壁 乗り越えて

 

 生まれ変わっても

 貴方に会いたい

 

 はなびらのように散ってゆくこと

 この世界ですべて受け入れていこう

 

 君が僕にくれたもの

 今という現実の宝物

 

 だからぼくは精一杯生きて花になろう・・・』

 

『雨上がり 虹架かり 青あらしにそそぐ光 

 ここに揺るぎない大切な物

 気づいている”愛する”ということ

 まだ歩けるだろう?

 みえてるんだもう

 ”想い”時を越え 永久(とわ)に響け

 君の喜び 君の痛み 君の全てよ さぁ 咲き誇れ

 もっと もっと もっと‥‥』

 

 

急に、頭の中に、響いてきたこの歌詞。

 

2004年にリリースされた アーティストグループORANGE RANGEの名曲です。

 

www.youtube.com

 

本当にこの曲、神ってます!!

 

あれ、どんな歌詞だったかな・・・と歌詞を調べて読んでいったら・・・

 

涙がだばーーーーーーーっ!!と出て、大号泣しました。

 

これでもいろんなしがらみ乗り越えて生きてきた私にとっては、とても心打たれて涙流さずにはいられなくなりました。

 

確か、竹内結子さん、中村獅童さん主演映画『今、会いにゆきます』の主題歌でした。

この映画も泣けて号泣物でした。この共演がきっかけでお二人は結婚・・・そしてお互いの事情をもって離婚となってしまいましたが・・・様々な背景があってその選択肢を選ばれたのは、よほどのことだったのではないかとお察し申し上げます。

 

竹内結子さんは、若くして逝ってしまいましたが・・・実力派女優であったのはまぎれもない事実だったと思います。そして、真っ当に仕事に取り組んでいた方なんじゃないかな。

 

おそらくこの映画の季節柄と、ORANGERANGEの名曲であり本映画の主題歌「花」の曲がベストマッチングで、私たちの世代には強く記憶に残っているのだろうと思います。

 

 

魂単位の出会いでは、時を越えて、時空を超えて、出会えても、お互いの事情で再会が難しく現実界までには叶えられないという現状があるように思います。またこの時代の背景色も相まって、恋愛は一部の人のみで、他は淘汰されるように流れている、そう感じます。とくにミドル世代では、もう諦めの背景が色濃ゆい。

 

お互いに自分を知らない者たちが迷いながらマッチングアプリや婚活などを通して、一生懸命活動しても、なかなかぴんと来ない相手ばかりに巡り合ってしまい、疲れてしまい、諦めてしまうパターンが多いように思います。

 

耳が痛い?ごめんね(泣)私も今、泣きながら書いています。無念の気持ちで。(だから痛いってばっ!苦笑)

 

あらごめんなさい、痛い者でww

 

私たち世代は、自分を知らないまま、自分というものから目を背けられていた、といっても過言ではないくらい、宿題や勉強に追われてきたと思う。こんなこと言っては、本当に失礼極まりないものいいかもしれませんが・・・。(注:それを難なくこなしてきた優秀な方達はほっときます。だって、それなりにもういい肩書持ってるでしょう?ほっといてもどんどん先へ進んでいけばいい。もし気が向いたら話し相手にでもなってよ。←無理ww)

乗り越えられた人たちはほんの一握りです。エリート中のエリート。世の中を引っ張っていってます。だからといって、そうでなかった人たちは、もうおざなり。ってことはしないですよね?

 

ごめん、でも、おざなりと思われる、そういう方達こそ、本当は世の中のことを良く見ていて、肩書がない自分を責めて、何もできない、と自ら暗示をかけているんです。そして、引きこもる。大丈夫。私もそうだから、安心してww(←一緒にするなっ!ってツッコまれそう・・・(だから痛いってばww2度目)

 

本当は可能性を持っているのに。だから、何かきっかけを作ってあげなきゃいけないように思う。退化していく一方ってあきらめていては勿体ないんです。退化していっても、根気よく訓練していけば、形は整う。絶対に。

 

大事なのは、

 

「自分だってできるんだっ!」

 

その気概だと思います!!

 

失業保険でなくても、スキルを見つけたい人達が少額負担制(高くても2万~3万円台)で、受講しやすい職業能力訓練だったり。

 

今、日本は本当に、この肝心なミドル世代が、自信なさげな人たちで引きこもりの生活になっている人が多いように思います。その中から抜け出せて成功したのは、まだほんの一握りの人。でも、それは何度も何度も自分に問い直し、自分を切磋琢磨してきた方達です。その切磋琢磨を試練とみて向き合うか、めんどくさいと言って逃げ切るか。そこが極め時です。

 

やっぱりこの二極化(できる人、できない人)は目立っていて、あるSNSでエリート組の一人が言っていた。

「30代―40代で落ち気味の人たちは、本当に諦めてる感が強い

 だから10代―20代で頑張れるときに頑張ったほうがいい」

 

頑張るってどんな姿でしょうか。

 

 

ひたむきに肉体労働や精神をすり減らして頑張ることでしょうか。

 

 

私は、精神を主にずたずたにされる感じで罵倒される、そんな仕事を受けてきました。

思いのほか、それが事務・会計。弱い者だと察すると、コテンパンに罵倒する50代後半のお局。人のいないところで二人の仕事だと、偉そうにズタズタになるぐらい罵倒的な言葉を浴びせてきました。それでも私は我慢して、本当は訴えてもいいぐらい。この人と8年近く付き合ってきた。唯一頑張れたのは、二人にしない様に、上司に相談して配慮してもらったこと。最終的に、その人、辞めたけど。私はその傷がなかなか癒されておらず、今に来ているように思います。

 

今、思えば、職場関係・勤務先には恵まれているようで恵まれていなかったのかもしれない。もしくは、自分の精神が本当に幼くて周りをイラつかせていたのかもしれない。でも、そのお局は、周りにも疎まれていた。

 

なんとか私が踏ん張ってその人との仕事と、周りの環境を調整しながら頑張っていたように思う。

 

その人が辞めると、なんかもうやり切った感があって、そしてその勤務先の変わりゆく姿に「自分はもういらないかも」と思えてきだして、やめたのでした。以来、職場を転々としてきた。いずれも人間不信による人間関係の築けなさが原因によるものだった。

 

・・・・ここだったか・・・・

 

今、その気づきで、少し分かったように思う。もう、私は人間不信に行き着いていたのだった。って思いこもうとするのもダメだけれど。たぶんその8年に及ぶ、そのお局からの罵倒的な態度で、とくに50代-60代に対する印象が、恐怖にさえ感じていたのだ。

 

そして、これは良い悪い、正しい間違っている、の選択に縛られていたのだった。相当自信と誇りを私はそこで、捨ててしまったのだ。

 

情けないことに、私は今、保育士という肩書をも捨てようとしている。

自分というものが見えていなかったため、無理に頑張って取った資格だった。

 

また、今、『待つ』という究極の試練に、ぶち当たっており、待つことの苦しさをも味わっている。結果を早く出す、という世の中の流れが加速する中で『待つ』という状況は苦しい。

 

でも、『待つ』ことはれっきとした生活イベントでもある。結果が早く出てしまうこの暗黙の了解のシステムも、少し見直しが必要なんじゃないかな。

 

 

ってなんか、大きく話が逸れてしまった。

 

大きく遠回りしてしまったが、

私は、今、自分の体調と、自分の能力のやりきれなさと、将来を見出すことができないその色んな背景をごちゃまぜに受け入れて、混沌とした環境の中、迷いもがいている。

 

そんな中、思い出されたこのORANGE RANGEの名曲「花」に導きを求め、今の回想からまた気づきを得られたことが何よりもの成しえる一つだった。

 

歌詞の中に出てくる「君」という言葉。。。

 

たいていは恋愛関係のパートナーだったり、片思いの相手だったりするだろう。だけれど・・・今思うと・・・それを超える自分、もしくは探している存在なのかもしれない・・・とぼんやりと感じている。

 

 

 

 

 

「今の生活を大事に・・・」という言葉は、強力なサポーターがいればこその話。

こんにちは。いつもながらちょっと毒舌目にいきますよ。

 

よく「今の生活を大事に豊かにすればこそ、人は幸せになれる。」

という言葉を聞きます。

 

断言します。それは、強力なサポーターがいてこその話です。

強力なサポーターって・・・?

 

一緒にいるパートナーに決まっているじゃないですか。

 

話を聞いてくれ、気持ちを受け入れてくれ、親身になって考えてくれ、「そう思うならやってみて!」と背中を後押ししてくれる人です。

 

一人でその生活を実現するには、すみません、言ってしまいますが限界があります。

 

SNS上で繋がっている人でもいいんです。お友達でも、彼氏でも、ペットでも構わない。自分にも精神的に豊かな、幸せな、感情を満たしてくれる人やものがあれば、本当に幸せなんです。

 

自分だけ、内助の功を気取って、

「今の生活を大事に」と思っていても、それは本当に心の底から幸せになるには、どこかしらの隙間ができているんです。人は一人では生きられない。本当にそう。自分では気づけない視点が必ずあるから。

 

だから一人で何もかもできるようになるっていうのは、素晴らしいことだけれど、本当にそれが自分にとって好きなことで楽しいことだったら、何も問題ない。本当に。それは自分の中で幸せの相乗効果が出きているから、まったくもって否定しません。

 

だったらどうしろっていうの??

 

って聞かれるんだったら、このブログ記事をよく読んでないと心得てください。私は、途中で言いました。サクッと。

 

サポーターという表現が少しおかしかったかもしれません。いや、でも物でも、その人の役に立っていれば、もう存在そのものであるように思います。

 

究極の理想は、実際に目の前にいてくれて、心から貴方のことをサポートしてくれる異性がいることです。本当に、それがあれば、全部が満たされる。自分も助けになりたいと自然に思え、サポーターになれる。お互いの存在の相乗効果で幸せになります。

 

でもその前に、必要なことは、貴方が今、一人ででも生きて幸せか、ということです。

 

一人ででも生きて幸せならそれでいいと思います。いろんなしがらみがあって、一人の方がいいと結論しているのであれば、それでいい。

 

サポーター必要なくても、経済的に豊かで料理などの家事や仕事がこなせることがあるのならば、それはそれで、人生を謳歌する秘訣を既に知っているので、いらないならそれで良いですよね☺️✨

 

そのうちに、また出会えた異性のことが気に入って、うまく結ばれたら万々歳だと思いますww

 

そうなればいいね(≧∇≦)b

 

 

 

 

 

忘れていたのは自分の信じる”基”だった。

またまた続くよ。奇想天外なこの記事が。

 

最近、目覚める時には、変な体の感覚が自分を襲っている。

まるで電磁波が自分の身体がふわふわ(?)じゃなく、ヴーーーーーンと微細動に揺れる様な感覚だ。なんなんだ・・・この感覚は・・・と思いながら、私はいつも朝早くに目が覚める。早くて午前3時。二度寝したいのに、叩き起こされるような激しい、電磁波版の頭のパンチのようなものが頭の中で起こる。フラッシュバックがおこるような感覚に近い。

 

たぶん、幻覚なのかもしれないが(笑)

 

大丈夫け?と心配になりながらも、普通に起きて普通に寝て普通に過ごしているが、内心はびくびくである。怖いんだもの。だからいろんな音に敏感になってる。寝ている時に、パチッとした音で体がビクつくときがある。

 

好きなアーティストのブログを見たり、作品を見たりしたら、収まるのだ。なんとも不思議な感覚。こわーい(棒読み)

 

その現象を感じられるようになってから、私は人目を気にしたり、人の表情を見ながら行動することが強くなっていた。だから・・・・・忘れていた。

 

自分の信じていた、基本中の基本の”基”(キ・き)をね。

 

世界平和や日本平和を祈りながら眠りについていたのに、それが起きてから、祈れなくなっていた。自分の信じることが信じられなくなっていた。

 

でも最近はそれが落ち着いてきているけれど近くで、じーっと鳴っている音は何なんだろうって思う。

 

電磁波の塊みたいな??そういうのがあるのかな??って。

 

でも不思議に、その電磁波みたいな体に巻き付いていたようなものが自分の身体を通り過ぎたら・・・不思議と体が楽になっているんです。

 

疲れを、その電磁波のような現象が吸い取ってくれているかの如くの感覚でした。

 

だから、たとえ、霊だったとしても、悪いものではなく、本当に器の大きい癒してくれるような立派な霊さんなのかな、と思うようになりました。

 

もし、それが本当なら、私、びっくりでーすっ!

 

いろいろと落ちぶれていたけれど、生きていてよかった(泣)

 

これからはもう少し前向きな記事書くようにします。

 

 

 

 

頑張っても頑張っても直せないのはもう定着しちゃってるから。

生活スタイルを変えようと頑張って頑張って頑張ろうとする。

 

例えば、ポイントカードが財布の中にかさばってきているので、名刺入れファイルを使って別に収納したりとか。お財布をきれいに使おうと思って、金銭出納帳もしくは家計簿を記録しようと意気込んで、新調したりとか。

 

準備は万端でも、「継続」、続けられなければ、意味が無い。

 

私は、半年ほど続けてきたけれど(これでも半年続いただけでもすごい(笑))結局は、肝心な時にポイントカードをファイルに入れたままでポイント儲けを逃したり、保険証を取りに帰ったりと・・・ひと手間二手間かかってしまう現実を目の当たりにした。何度も何度も。

 

元々の生活スタイルは、財布にポイントカードを入れっぱなし、レシートを入れっぱなしで家計簿もつけない、ズボラな感じだった。でも金銭感覚に危機管理が芽生えて、お財布を丁寧に扱えるから一石二鳥だと思っていたのだが、ここ最近ストレスが半端なく、もうどうしようもないぐらい、継続力をそぐわせる何かが働いていた。

 

おかげでここ最近の財布の中身は、レシートがかさばり、ポイントカードは見つからないわの悪循環だった。ストレスが重なって、かみ合わせが悪くなり、噛んで口内炎ができてしまう始末だった。

 

結局・・・悔しいかな。

どんなに素晴らしい生活スタイルを目指そうとしても、自分を律することができていないと、何かに足を引っ張られ、簡単に崩れてしまうのである。

 

とある情報では、四次元の世界とこの三次元の世界は、交じり合って、気をしっかりもっていないと憑依され、感情を揺さぶられたり、波を大きくされたりとひどい有様な状況になると危惧されている。それだけは避けたかったが、私はどうやら巻き込まれているようである。

悲しいかな、助けようと働きをする存在もいるようだが、あまりにも悪さをしようとする輩が多いらしく、私は足を引っ張られている。

 

こんな話を書くとますます、頭の痛い女と思われるかもしれないが、あながち間違ってはいない。

 

自分を律すること=自分の基軸をしっかりもつこと。基軸は信念であり、揺るぎない自分自身の意思である。

 

私にはもう、凝り固まってしまって、どうやっても基盤になってしまっていて、今の自分が決めたことを守ることができないでいる。それがどうしてもいやだった。

 

でも、もう、今日買い物から帰る車を運転する前の事。

「あ、もうだめだ。諦める」

 

と、できない自分自身をもう受け入れてあげた。

厳しく叱咤することもせず、責めることもせず。

 

もう「よくやった。今まで頑張った」と、自分をねぎらうようにしたのだった。

 

そしたら、心がすっと楽になって、

「もう自分でいいや」

 

と思うようにしたのだった。

 

なにごとも諦めが肝心て言うけれど。

 

どう頑張っても実らないとき、達成できないとき、報われないときは

 

もう自分自身を休ませてあげるべきだ。

 

諦めるのは悔しいが、はっきりしているのは「合わない」ということだった。

 

だからあまり自分を責めることはせず、もう受け入れる。ただただ受け入れて、やり方を変えてみる。簡単なやり方にしてみる。

 

ポイントカードを別に収納していて忘れていたなら、もう財布に入れっぱなしにしたりとか。家計簿は点けなくとも、たまったレシートを集めて、俯瞰してみてみたりとか。どんだけお金を使ったか、が分かるから。

 

そして続かなくても、支障がなければ、「必要ない」ことでいいと思う。

 

それでも、お金の動きを管理できて家計簿を続けている人々はすごいって私は思うね。継続は力なりっていうけれど、本当にそうだと思う。

 

続けられるってことは、それだけの精神力を継続できているってことだから。

 

できることなら「定着しちゃってるから」と受け入れていく、そんな器をもつ自分でありたいと思う。