幻想と現実の狭間をフラフラと。

社会に溶け込む自信のないアラフォーです。社会って厳しいし苦しいね。優しい笑顔の裏にはみんな泣きたい心があったりすると思う。

しっかり自分と向き合うことは大事だけど同時に追い込んでいる。

昨日、親と話をするうちに、もう涙が出てきて、自分の仕事にしてきたことが、じつは、自分で自分を傷つけていたことだったことに気がついて、涙が止まらずにはいられなかった。

 

結局、肝心な部分が満たされないまま、大人になってしまっては、自分でも気づかずに、自分を追い込んでしまう人生になってしまう。

 

なんのための子育てだったのか。

 

親の自己満足で終わっていた子育てでは、子どもは心なしか不安を抱いて、自信が持てないまま大人になる。

 

必死で大人になるまでの過程を自分なりに、歩んでいって、親や学校から教えられていることを学び、なんとか、必死に立って立ち続けて、踏ん張って、なんとか歩いて、幾度も突出する課題や試練たるものに、おびえながらも立ち向かっては、打たれ、躓き、転び、負傷し、気絶→意識を取り戻す→なんとか立ち上がって歩き続ける。

 

そういったことを繰り返して繰り返して、大人になっていくのである。

 

打たれ強くなっていけばいいのだが、そうでない人たちは、どんどん自信を失っていき、挙げ句の果てには死を選ぶ。

 

そうならないためにも。当事者の心の闇を暴き出すこと、膿出すことが大切になってくるのだ。

 

これは、めちゃくちゃ辛い取組である。そして骨折る作業だ。ケア者の相当な根気と器の大きい人でない限り、それを成し遂げることは難しいと思う。だからこそ、複数の人がかかわらないと、ケア者も当事者の道連れに巻き込まれてしまい、2次災害になりかねないのだ。

 

子どもの世話は、自分が今まで生きてきた中で、いっぱいやりたいことに取り組んで、失敗しながらも、やりたいことを叶えていった人たちが、自分の欲求を満たしていった人たちが、取り組めるものだ、ということを、保育士の仕事を通して痛感した。

 

私は、保育のカリキュラムの中で、自分の欲求を満たそう満たそうとして、それにいっぱいいっぱいになって、体を壊したのだった。子どもを保育のカリキュラムを達成させよう、取り組ませよう、そのためのコントロールするだけにいっぱいいっぱいになっていた。

 

また保育を子育てと勘違いしていた。保育士はお母さんではないのである。あくまでも、子どもたちをよりよい人間に導くための先生であり、導師なのだ。それには厳しい視点も必要だし、子どもたちを冷静に、批判的に見る目も必要なのだ。

 

私には、もう、保育に携わる仕事はもう復帰できないような気がしている。保育に子育てを求めていた。その過ちに自分で気づいた私には、別方向でもう歩き出すことが必要だと、私は思うようになった。

 

この流れには、自分自身との対話で行き着いた答えだった。自分としっかり向き合うことで心を整えることができるが……あまり度をすぎると、自分を追い込んでいくリスク性も高くなる。それだけは気をつける。

 

ただ、その追い込まれた自分を認めて、受け入れ、対策を練って乗り越えた暁には、また違った視点が得られるのではないだろうか。私はそこに希望を見出したい。