幻想と現実の狭間をフラフラと。

社会に溶け込む自信のないアラフォーです。社会って厳しいし苦しいね。優しい笑顔の裏にはみんな泣きたい心があったりすると思う。

もし死ぬ日が分かってしまったらどんな風に過ごすだろう?

インスタグラムをぼーっと見ていたら、タイトルのようなフレーズを流す動画に出会った。

ぞうさん家族のお父さんが死神ちゃんから死ぬ日を予告されて、その日になるまでにどんな風に過ごしていったのかを、簡単にまとめていた。

お父さんゾウは、変わりなく何気なく、でも子どもたちや奥さんのために時間を費やし、家族のために自分の時間を過ごしていた。やがて、お母さんゾウは、死神ちゃんとともにいるお父さんゾウに死ぬ日を教えられて涙していたが、その当日は静かに受け入れて、子ども達をお父さんゾウがいる海へと連れていく。子ども達、男の子は一緒にキャッチボールしたボールをお父さんゾウをかたどった雲に、投げ飛ばす。その雲はお父さんゾウに変わってキャッチボールを受け止めた。

 

この1分くらいにまとめたショートストーリーでも、とても見ごたえある動画だった。

 

同時にいろいろと考えさせられた。

 

 

 

注:これから書く内容は、決して、自死を推奨するものではなく、自分のこのテーマについて感じたことであるので、決して深く感じ入ることはおやめください。そして、ふかんするように読んでいただければ幸いです。あんまり、鵜呑みにするのはやめてくださいね。

 

 

 

今の自分に置き換えて、このキャッチフレーズを咀嚼する。

 

私の場合は・・・たぶん、何気なく過ごすと思う。食事や一つ一つのものに大事に向き合い、味わい尽くすかのように、その日その日を楽しむだろう。

生きていくことで精一杯であるため、その日に与えられた一つ一つをありがたく噛み締め、ありったけの感謝を伝えていくだろう。そして疎遠になっていた友達にも会いに行くだろう。できることならば、遠くにいる甥っ子にも会いに行きたい。一番最初の甥っ子で本当にかわいくて、私が母になりたいぐらいだった。

 

どう頑張っても、私は自分で決めたことを最後までやり遂げることは、少なかった。途中であきらめて妥協して、その日その日を凌いでいたように思う。

 

早く帰りたかった。あの世界に。幼稚園の頃は特に、その気持ちが強かった。

 

かけっこの時、早く走りたいのに、太もものあたりや足先に力が入らないのが不思議でいつもビリだった。なんで?なんで?もっと速く走れるはずなのにって。いつも走りながら感じてた。

 

だから私は、死ぬ日が、もし一週間後だと言われても、もう諦めの境地で、その時を迎えるだろう。1か月あれば、できる限り会いに行ける人には会いに行きたい。

そして「ありがとう」ってお別れして帰途に就くだろう。

 

そして笑顔で、その世界に逝けるように私は眠りにつくだろう。